ネック・チャンド・ファンデーション

[1] ネック・チャンド・ファンデーション

[2] ネック・チャンドの幻想庭園 

[1] ネック・チャンド・ファンデーション

 

 

インドのチャンディーガルにあるロック・ガーデンは、アーティストであり建築家であり、エンジニアでもあったネック・チャンドが作った広さ25エーカーに及ぶ夢の世界で、そこにはたくさんの彫刻、滝、そして巨大ぶらんこがあります。

 

 

   ネック・チャンド・ファンデーションは、このロック・ガーデンを保護し、ネック・チャンドの仕事の完成を支援する目的で作られた公認登録の慈善団体です。ネック・チャンド・ファンデーションは、この環境芸術の作品に対して国際的に意識を高めてもらうため、ボランティアの参加ツアーを計画しています。ボランティアは毎年11月、あるいは2月~3月の1カ月間ここに滞在し、リサイクルされたタイルで世界一大きなモザイクを作ったり、ごみを拾ったり、この庭のことを戻って報告するといった活動に参加します。ロック・ガーデンは鳥で一杯の森に囲まれた美しい場所です。ここに1カ月滞在すれば、様々な文化の体験をすることが出来るでしょう。

John Francis Cross

[2] ネック・チャンドの幻想庭園  

比嘉 勇也

ネック・チャンド・サイニ(Nek Chand Saini)は、1924年12月15日に英国領インド帝国(当時)のパンジャーブ州にあるベレアン・カラン(Belean Kalan)という村に生まれた。その頃のベレアン・カランは自然に囲まれた平和な農村で、ネック・チャンドは幸福な子供時代を過ごしたという。幼少期のネック・チャンドは、面白い形の石を見つけてきてガジュマルの根本に飾ったり、友達と一緒に川辺の粘土で人形や動物を作ったりして遊んでいた。

1947年に英国領インド帝国がインド連邦とパキスタンに分かれて独立。その際、パンジャーブ州はヒンドゥー教徒が多数を占めるインドとイスラム教徒が多いパキスタンに二分されることとなった。ネック・チャンドが住んでいたベレアン・カランはパキスタン側に含まれることになり、村の近くに国境線が引かれた。当時、インドでは政治的・宗教的な紛争が多発していたが、その中でもパンジャーブ州は特に争いが激しく、100万人が虐殺されたとも言われている。ベレアン・カランでも、それまで助け合って暮らしていたイスラム教徒とヒンズー教徒は敵味方の関係となり、ヒンズー教徒だった ネック・チャンドの家族は、住み慣れた家や土地を後に残してインドに亡命した。

インドに移住したネック・チャンドは、インド政府の移民支援対策プログラムによって道路検査官の職に就き、1951年にはチャンディーガル市で働き始めた。ネック・チャンドは、仕事が終わると毎日のように自転車で40km離れた河原に行き、面白い形の石を拾っては持ち帰って飾っていた。

当時、チャンディーガルではル・コルビュジェの指揮の下、モダンな都市の建設っが進んでいた。ネック・チャンドは、その際に発生した大量の瓦礫に興味を持ち、陶器、タイル、ガラスの欠片などを拾い集めるようになった。そして、それらを使って人や動物の彫刻を作り始めた。

ネック・チャンドは、1957年に市の緑地の奥を切り開き、人目を忍んで彫刻やそれを並べる庭園を造り始めた。毎日、仕事が終わると自転車に乗って森に向かい、深夜、場合によっては早朝まで、創作を続けた。日が暮れると、拾ってきた廃材や古タイヤを燃やしてその明かりで作業を続けたが、古タイヤは燃やすと悪臭が出るため蚊や蛇を追い払う効果もあったそうだ。そうやって独りで作り続けた庭園は、1975年に市当局に発見されてしまう。庭園を造り始めてから18年が経過しており、4.9 haに拡張した庭園にはタイルやガラスの欠片を張り付けたセメント製の彫刻が何百体も並んでいた。緑地の開発は禁じられているので、庭園は取り壊し、また公務員のネック・チャンドはクビ、となるおそれがあった。しかし、チャンディーガルのランダワ知事*(当時)は自ら庭園に足を運んで視察を行い、庭園を市の文化財と認めた上で、ネック・チャンドをその建設監理担当に任命した。そのおかげで、ネック・チャンドはフルタイムで庭園造りに取り組むことが可能となったばかりか、市が雇った50人のスタッフを動員できるようになった。1976年より、ネック・チャンドの「ロック・ガーデン」は正式に市の公園として認められている。

(*正確には「Chief Commissioner」。連邦兼轄領であるチャンディーガル市の長で、1984年6月以降はパンジャーブ州知事が兼任することになった。)

ネック・チャンドの「ロックガーデン」は、インディラ・ガンジー首相(当時)も何度か訪問するほどの名所になった。1983年には、ネック・チャンドの彫刻を図柄にした切手がインドで発行されている。

しかし、ロックガーデンの評判を快く思わない役人もいたようで、1990年には庭園を破壊して道路を建設する計画が持ち上がった。ネック・チャンドは心労で体調を崩し、ついには心筋梗塞を起こして入院を余儀なくされる。彼が集中治療室に入っている間に庭園の周りの木々が伐採され、4月20日にはブルドーザーが庭園の周りに配置される事態にまで発展したが、数百人の子供を含む地元の支持者やインド国内の芸術家達が自発的に集まって庭園を取り囲み、ブルドーザーの前に立ちはだかったので工事は中断された。庭園のサポーターの中には市の役人も含まれており、中でもルーパン・ダウル・アジャジ夫人は、建設局の職員でありながら上司の決定に異を唱え、週末には息子と一緒に町の映画館の前でビラ配りや署名活動を行った。

その後、一年に亘る裁判でロックガーデン取り壊しの是非が争われ、最終的に庭園の存続が認められたが、この一件でネック・チャンドはかなり消耗してしまい、また庭園への市の補助金もほとんど打ち切られてしまった。1996年にネック・チャンドは米国に招かれ、1ヵ月間に亘ってウィスコンシン州(世界有数のネック・チャンド・コレクションを有するジョン・マイケル・コーラー・アーツセンターがある)やカリフォルニア州で講演を行った。ネック・チャンドがチャンディーガルを離れた直後に、市当局はロックガーデンの維持管理を行っていた人々を移動・解雇。また、同時期に何者かがロックガーデンに侵入し、庭園内の設備や彫刻を破壊した。1ヵ月ぶりに帰国したネック・チャンドは庭園の惨状に衝撃を受けたが、そのニュースがRaw Vision誌などで報道されると、庭園の存続を求めるたくさんの手紙がインド政府やチャンディーガル市に寄せられた。1997年には、英国でポール・ハムリン基金からの寄付を基にネック・チャンド基金が設立され、ボランティアによる庭園の修復が開始。少しずつではあるが、最終段階となる第三フェーズ(遊園地と空中回廊)の建設も再開している。

ロックガーデンの入り口には、「A Fantasy」(幻想)と刻まれた大きな石碑があり、その下に「Created by Nek Chand」(ネック・チャンド制作)と刻まれている。入場料は20ルピー(約30円)で、午後や休日は地元の人達の憩いの場して賑わっている。入場すると、廃材のモザイクで飾られた石庭があり、ネック・チャンドが50年代から集めている面白い形の石がたくさん展示されている。木立の中に入って行くと切り立った崖の上に小さな農村が見えるが、これはネック・チャンドが生まれ育ったベルアン・カランの村を再現したものだ。インドとパキスタンの分離独立から50年以上が経過した後、ネック・チャンドは息子のアヌジを連れて国境を越え、自分が育った村を訪れた。その時に彼は故郷から一握りの土を持ち帰り、ロックガーデンの地面に撒いたそうだ。

現在のロックガーデンの面積は16ヘクタール。東京の日比谷公園に匹敵する広さである。庭園の中は、様々な趣向が凝らされたいくつかの区画に分けられ、高い石垣に囲まれた迷路のような回廊やトンネルで繋がっている。出入り口の多くは茶室のにじり口のように小さく作ってあり、大人は屈まないと通れない。その先には石垣があって目隠しとなっていることが多く、先がどうなっているのかは通り抜けてみるまで分からない。灼熱の太陽の下、涼しげな水音が聞こえてきて、突然目の前に高さ15m以上の滝が現れたりする。ロックガーデンでは、モンスーン季(雨季)に雨水を蓄えておいて乾季に利用するため、一年中豊富な水が流れ続けている。

2012年の12月に88歳を迎えたネック・チャンドは、今もロックガーデンに通い、職員やボランティアに指導するとともに、自身でも創作活動を続けている。今は、第三フェーズ(巨大ブランコを含むロックガーデンの最終段階)の構想で頭がいっぱいだと嬉しそうに語っていた。ブランコの上の遊歩道を背後の森まで延長し、入場者は何百人もの兵士が整列している様を見下ろしながら彫刻展示場へと進んで行く、という構想らしい。また、最近は近くの村の女性達を動員して、大きなぬいぐるみの制作も行っている。これは鉄筋に布を巻き付けて作るもので、色鮮やかな布に顔を刺繍して仕上げる。等身大の人間や牛、馬、犬、鳥などが多数作られているが、普段は人目につかない場所に保管されており、祭の時だけ庭園のあちこちに配置される。

ネック・チャンドの夢と創作意欲は尽きる気配が無い。第三フェーズが完成した後はどうするのか尋ねたところ、園内に庭園の歴史を紹介する資料館を作る予定だと楽しそうに語っていた。

2012年12月

比嘉 勇也

 

 

 

Scroll to Top